人の善意
「今日はどぉするの?」
「行くよ」
とベッドに寝てる次郎に話しかけてから出勤するのが "信じるだけ悲しい" かーちゃんの朝のルーティーンとなっている。
かーちゃんがパパと花子と自分のお弁当作りに起きる頃ようやく寝に入る次郎の朝の「今日は行くよ」は単なる無機質な記号だ。しかもかーちゃんが聞いているのは学校の事ではない。次郎は9月末に高校を辞めたばかり、N高の手続きは何とか終わったばかりだが通学はしなくてよい。かーちゃんが聞いているのは自動車学校の事だ。夏休みに取れればいいなぁと思って順調に実技をこなしているかと思いきや、路上に出る前のテストでもう既に4回落としてる。本人に聞くとどうもあと1点足りないらしいが、前回教習所に行ってからもう1ヶ月も経つ。確か取得までの最長期間が決まっていなかったっけ?と思いながら、車の教習料も無駄だったか?とやるせない気持ちになる。
そんなかーちゃんの虚しい朝のルーティーンがいつまで続くのかと思ってた朝の会話が、今朝は違った。
「もう出るよ」
「え?どうしたの?教習所ってこんな早くからやってたっけ?」と7時台の会話…
「ちょっと琵琶湖まで行ってくる。」
「どう言う事?」
いつものかーちゃんのルーティーンのお弁当作り&花子を駅まで送迎して家に帰ってきた7時半ごろに近所の大学生が自転車のツーリング姿で現れた。あ、なるほど、だけど、オイオイ!
人を待たせる事に罪悪感の種もない次郎はゆっくりと準備をしていた。大学生は次郎より3つ上のセーリングの先輩でもある三郎だ。次郎を待つ事に飽きないよう かーちゃんが質問をし始めた。
「なんで琵琶湖なの?」
「何日くらいかかるの?」
「どこに泊まるの?」
「いつ帰ってくるの?」
と聞いて、ちょっと待ったをした。
今日は火曜日、次の日曜日は次郎の英検の2次試験。
「そっか、わかった土曜日に帰ってくる」
と言って準備も中途半端な感じで、かーちゃんに借用書を書き3万円を持って出かけていった。
どこまで進んだかなぁ?と仕事の昼休みに位置情報アプリで探すと熱海にいた。まずまず進んでるなぁと、3時の仕事休憩の時に見てもまだ熱海のコンビニ、仕事から帰宅して見てもまだ熱海のコンビニ…おかしい。そんなに休んでると琵琶湖にはつかないぞ?アクシデントか?それにしてもおかしい、と思っていたところ夜に三郎からLINEがきた。
「次郎は携帯を熱海に忘れた。予定通り静岡で宿泊する。」
はい、はい、無事なら結構。期待を裏切らない天然発揮。その携帯をどうするのかは聞かず、何となくその後も位置情報アプリで見ていると2日後には琵琶湖付近で途絶えた。
2人は予定通り琵琶湖に行き知人が出るセーリングの大会会場で会い、新幹線に乗って試験前日の夜に帰宅し、翌朝ベッドから起きてこない次郎を何とか起こし車で英検2次試験会場前に落とし、全身筋肉痛でぎこちない身体を左右に振り子の様に動かしてながら学校の昇降口に進む次郎を見送った。「もう少し雑談がしたかった」と言う試験の結果は準1級合格者の上位7%でも、その資格の使い道を何も望んでいない次郎にとって単なる暇つぶしの試験だった事が証明されただけ。
ちなみになくなった携帯は三郎が熱海のコンビニに電話をし、送り先を琵琶湖の郵便局にしてもらったものの土日もあり次郎達が琵琶湖を後にするまで届かず、熱海のコンビニ店長に再度連絡をとり、転送先を自宅にし着払いにしてもらい持ち主より長く旅した携帯は無事に手元に戻ってきた。どれだけの人の善意と時間を有したか次郎にわかる日が来るのだろうか?